Question Act.1~Act.6

紡がれる言葉での印象と目前に存在する上での印象の違い。一面であり、二面であり、多面の様。

始まりと終わり

一年で言うと年末年始ではなくて、自分の誕生日~誕生日までが一年と思っていて、誕生日前後というのは禊、自分的には神聖な期間だったりする。人生においてはこの日命日と決めてる日が実はあって、その日に本当に死んだらすげぇなと思う(笑)「始め」と「終わり」なら、終わったとしても「始め」の方が好き。

言葉

話言葉、口述の言葉というのは今ひとつ好きじゃない。
昔ほどズレみたいなものやうまく伝わらない感覚はさすがに感じなくなったけど、自分の気持ちを伝えることは難しい。書き言葉は雑文で書く文章と、作品として書く言葉のギャップが年々酷いので笑ってたりします。時には深刻ぐらいがちょうどいいかな。

コミュニケーションの限界と打破

ずっと「コミュニケーションの限界」というのは考えていて、自分というのはそこから作られたモノだと思ってる。結局、他人との関係上での軋轢だよね。言葉なり、どんな表現と言われる手段でもそれはあくまでも記号であって、意図・意思の方向性を指し示すものでしかないから100%真意を汲み取ることも汲み取られることもないと思う。なのに「わかりあえる」「わかりあっている」と思うのは慢心でしかない。
だけど安心して他人と自分はわかりあっていると思って安心することも間違いじゃないけれど、
自分はそうは思いたくない。
わからない・わかりあえないと思うからこそ、足掻けるんだと思うし、近づこうと出来る。人間同士わかりあえないとひねくれることは簡単だけどそれは格好悪いよね(笑)

表現

発端としては自分にとって表現というのは結局「コミュニケーションの限界と打破」の手段であって、意思表明なんだと思う。口述の言葉で何かを伝えることのドヘタ具合にうんざりしてるのに親が気付いたのか他の狙いがあったのかわからないけど、話すより他の手段覚えてたし。絵を描いたり、陶芸したりいろいろと。遊園地や公園行くより、美術館や神社仏閣、劇場に連れて行かれる方が多かったしね。
昇華したのは16・17くらい。
それまでは「自分をわかって、自分の気持ちをわかって」という部分だったとは思うけど、自分の気持ちのある部分だけは他人の気持ちのある部分と一致することや自分が予測していたものとは違うものが他人の気持ちの中の何かを刺激することわかって、それからかな。

存在

自分は自分としての価値はあるようでないと思う。
自分で意味はつけてない。
根底の部分は決まってるけどどこから見ても相手の望む顔は残していたいし、そうじゃなきゃつまらない。他人に意味をつけらること、それが数ミリでも自分に違和感のないものならそれでいいかな。

偶像

憧れの存在というのはまったく今までいない。
こんな風になりたいというのも特にない。
そういう意味では小学生の頃から自分と誰かを比べてどうこうというのはなくて、その時点で自分大好きってことだよね(笑)でもその頃物凄く自分嫌いだったのは自覚してる。

名前

仕事柄というか、立場柄ここ数年ずっと自分の名前・いわゆるフルネーム本名を眺めることが多いんだけど物凄く他人な感じがして「誰?」状態。以前ほど分裂している感じは減ってるけど、やっぱり自分が表立って背負っていたと思っているものはmtakedaの方で、本名は背負ってない。芸名っていう意味じゃないんだよね。こういうのはいけないことだとはわかってるけど、やはり名前も記号でしかないんだと思う。記号に意味をつけるのは親だったり、周囲の他人。自分は自分を変えたいのもあったから、そして自分が記号に意味を足し続けていたのはmtakedaの方。バランス悪いよね(笑)

性別

もう性別解禁するしかないから解禁してるけど、出来ることなら男でも女でもなくいたい。女だからの性質はあるけど、女だからと言ってどうこうと先入観はもたれたくないだけ。かといって男に勝ちたいとかその手のものは一切ない。
それはずっとそう、きっとずっと変わらない。

色として好きなのは黒、闇。でもそこには白い、強い光が差すという前提の闇。
あと赤、濃い血の色。
昔は服装も黒ばっかりだったけどある時期から多色な服装になってる。何故かなぁと思ったらそもそも絵を描いたりする時は多色使いだったと思い出した。舞台行ってからは真っ暗空間にサス1本、でも服装派手…色のバランスを何かしらで取ってるのかもしれない。

わんこ会長

ここに来てこの質問?(苦笑)
基本的に犬猫がいない生活をしたことがなくて、ちょうど両方喪失した時「どうするかなぁ?」としてた時に出会った。もう10年くらいなのかな、気がついたら会長扱いになっていた。
別にゆるキャラ狙いではないし、少しは性格も丸くなったんだけど、それでも対外的に他人から映る自分は近づき難いらしくてその緩和の役目を担っていたりする。とはいえ近寄りがたいキャラが会長片手にウロウロしているのは違う意味で近寄りがたいとは思う。だけど突っ込みいれてくるかどうかでわかるよね、何となく人となりと人柄(笑)

人間関係

割とというか、数年ごとに自分の軸になる輪みたいなのから抜けるんだよね。崩壊させるっていうか、ひどいときは完全に断ち切って他の輪を作る。一箇所に軸、基盤作ると楽なんだけど逆に今度は先入観だったり思い込みで判断されるようになって重苦しい。それでかなりガシャガシャと輪を変えるなり、周期的に人と知り合うように動いたりするけど、それでも変わらずに残る人達がいて、その人らがいれば結局自分を構成する要素になるんだろうね。

背負うということ

歳食えば食うほど「背負うものが無い」ことがハンデになるなと。同世代は確実に人としてまともなところで結婚だの子供だのとあるわけで。それがないまま生き続けるのは物凄いハンデなんだということを先日話していたんだけど、じゃあ今更そういうものらを背負う○○活動(笑)だとかする気はまったくないわけ。まったくないんだけど、厳しいなとしみじみしちゃう。それは単純な底の部分の強さに欠けるってことね。他人でそれを作れないなら自給自足でしょ。

自分的に本を読む状態というか「こうじゃなきゃ読まない・読めない」というのがある。エンデの『はてしない物語』でのバスチアン少年が本読み始める感じというの?(笑)誰にも邪魔されず集中しきれないとダメ、しかもそれが数時間持続されなきゃ意味が無い。よほどじゃない限り、本1冊1時間以内で終わっちゃうんですよ。早いときは30分で読み終える。だから本を買う時はまとめて10数冊とかやっちゃう。
本を読んでる量はかなりと言われるけど、同時に漫画もかなり読むので大人買いっていう言葉は自分の為にあると思う(笑)

オンオフ

人に言わせると自分はオンオフの切り替えがないタイプだそうで。昔はあった気がするんだけど結局それって逆に自分は疲れてしまうのでしなくなった。代わりにいかにマイペースでいられるかを意識するようになったんだよね。そうじゃないと脳みその回転がかなり遅い。オンだから、オフだからで思考を切り分けるのはかなり辛い。ある一定の流れの中で漂うようにしていないと発想だとか考えは出てこないしね。それがいいのかは知りません(笑)

時間と無駄

我が人生は無駄の積み重ねだったりする。365日フル稼働で生きてることはまずない。働いてないという意味でなくて、有益な、精力的な日々を計算すると年間365日中100日も無い気がする。たまに記憶ないしね。そういう意味では意識は常にどっか飛んでて、目の前とか足元は見ていないのかなと。だからたまに思うんだけど毎日頑張ってる人は少しは気を張るのをよしたらと思う。かなりそう出来るのは羨ましいんだけど、そうしなくても平気なんだからもし疲れてしまうのなら頑張らなくていいよと思う。

やりたいこと

近頃よく問われるんだけど正直自分には基本的にやりたいことというのがない。かつてはあったけどなくなった、というのが正確。夢と希望がないというわけでもないんだけど、ちょっとね、なんかね、ないんですよ(笑)おそらくオンオフ辞めたからなんだと思う。自分が瞬間的にウワーッと意識と脳みそが稼動する瞬間さえあればそれがどの仕事でも物事でもいいんだろうなという話をしていると怒られます(苦笑)が、どうなんだろうなぁ。
やりたいことがあるならそれに突き進めばいいと思うし、ないなら無理することはない。ストレスを感じない生活や人生はないと思うけど、自分がのびのびといられることが一番難しいしね。そのことだけ追求してたいとは思う。

作品

作品という定義はいろいろあちこち使えると思うのね。自分が作ったものもそうだし、自分自身もそうだし、教える側から考えたら教え子も作品だし、会社そのものもそう。対人においてモノ扱いしているということではなくて、作品というのは結局時間と手間、手塩にかけて作る、そして思いや考えを込めるものだからそれは送信側からしてみれば最大の愛情だと思う。作品は伝えるんじゃなくて、込めるもの。

独り・1

「個性」「自分探し」的なものが流行った時代に育ってるわけですが、流行る前にそういうこと自分でやってたからよくあるセミナーだとかそういう類にはまったく興味ない。興味があるとするならば、それを受けようとする人の行動心理だし、教える側の手法みたいなものが興味があるだけなんだけど、本当昔からよく誘われる(笑)…本屋で物色してる時とか横断歩道歩いていたりとか、かなりよくわかんないタイミングだからね、「えぇぇ?」だったりする。自分的には「教わる側」要するに受信する側を否定する気はないし、需要と供給がある限り仕事としても成立するのだから送信側も否定する気もない。でも詐欺的なものは当然×。ただどんなタイプのセミナーでもさ、話聞いたりしてるとさ、自分の中で悔しさとか切ない感じが根底のとこで生まれる。

独り・2

自分の中に潜る・自分の意識を拡散するのに本を読む・誰かと話すというのはアリだと思うけど、その部分を「教わる」というのは敗北でしかないだろと思う。技術は別。モノを作る上で戦わなきゃいけんことをから逃げてるんじゃないかと思ってしまうのよね。戦うための武器を手に入れる為の教えを得るという説もあるけど、自分はそれは潔くないなと(苦笑)
受信側が求めてるものがそれぞれだとしても「救い」なりを求めてるのは変わらないハズで、その部分をさ、芸術が埋めるべきものではなかったのか?という悔しさがあるんだよね。もしくはいつからそんなに芸術やらが弱くなったのかと思う。小難しいことを言う気はないけど、自分と向き合う時間・見つめる時間の一つを提供していたものはどんなものでも作品と呼ばれるもの、芸術でもアートでも音楽でも映画でもいいけどそれだったはずだよなと。だからその分腐るほどいろんな芸術があって、作る人がいて、受け取る人がいろいろ。自分はかなり古い思考の人間だと思うけど、所詮芸術なんて誰かの影響の下に成り立って継続されているものだからまったく新しいものというのは生まれることはなく、如何にその影響を自分で昇華出来るかが勝負所でさ、それを技術はしゃーないけど作品の根底となる自分の意識を教わってしまうのならそんな人の作品なんて意味ねぇなと。独りで葛藤し続けることが芸術家、表現する人間の勤めと思ってたりする。そうじゃなきゃ高度な自慰行為でしかないでしょ。それが蔓延してるのかなと思うと切ない。

過多と操作

流行にしろ、情報にしろ、過多。「選択の自由」という言葉があるけど、選択肢がないより選択肢がたくさんある方がいいと思う。でもそれをどう選択するか、という部分の流れはない。でもあえて「ない」として情報操作、選択操作をすることは簡単だし、見えるものがすべてでもなく、見えないものがすべてでもない。見えるもので見えないものを選択させることや、見えないもので見えるものを選択させることとかね、いろんな手法が存在していて、じゃあそのルートに乗せる為の自己形成もまた操作。いろんなものに操作されているよなとつくづく思う。物事シンプルが一番ですよ(笑)

NextStage

何故ラストにいつも変な質問をするのだ?
公演やらないのかとかたまに問い合わせ来るらしいんですけど、多分ないです(笑)演劇という形態にはもう興味が無いというか、自分が受信側に対して意図したいものを作る場合やはりその手法は向いていないというのをいい加減実感してるし。向いていないというより、根本的に自分に足りない(笑)と言いつつ、何かを作ることはするし、その形態をどうするかを考えてるのでまぁ謎ですよ(笑)結局ね、絵を見て過ごせる独りの時間的な、内在時間を動かしたいのでちょっと難しいのです。演劇の形態にしちゃうと別のものが発生するメリットがあるけど、ファクターが多いのを痛感してる。そのファクターを取り除くには何が必要かもわかっているんだけど、まぁ難しいです(笑)

揺らぎ

揺らぐのは辛いなぁと思う時期があって、それは人間関係にしろ何かに対して感情の波を動かすのが嫌でさ、まぁ本当に疲れるじゃない?揺らぐ限り、心身共にほんとゲンナリするっていうか。喜怒哀楽すべて出来ることなら何も感じたくない時期があった。だから表立っての活動というか、発信やめてたんだけどさ。でもね、13歳くらいに書いた文章があってさ、それ読み返すとね、揺らがない自分じゃダメだなと思ったからやめた(笑)
何書いてたかというと、簡単です。アタラシクアに対する反発です(苦笑)心の平穏を13歳あたりの自分は求めていなかった。細かく言うと、平穏でいられないことへの強がりで自己防衛ではあったと思う。いろいろなものに揺らいでしまう、心が乱れてしまう自分を受け入れたというの?13歳あたりでそうした自分に負けちゃいけないよね。と、最近また決意新たに思ったりする。

差別

差別するのも差別されるのも好きではない。それは誰しもそうだと思うけど、実際問題差し迫った問題として「弱者と強者」について考える人間というのは少ないと思うし、そのことで討論なり話を出来る相手というのを探すのは難しい。同じとされる弱者同士、強者同士でしか分かり合えない、分かち合えない。同じ思いというのはとても難しい。
小学生くらいから所謂「差別問題」というのはほんといろいろ調べたりしていて、それはこう見えてもいじめられっこだった時期ありとか、女であることだとかいろいろあったのが発端だったんだけど、ほんと世の中にはいろんな差別があって、地域的・人種的・宗教的だとか調べれば調べるほどたくさんあるし、ある分苦しんでる人も戦っている人もいるわけやん。誰かと違うこと、誰かと同じことっていうのはさ、何とも罪深く幸福であり不幸だよね。自分的にはそのどちらでもあり、どちらでもない位置から発信することしか出来ないと思うし、だけどそのどちらでもない人間が踏ん張らないと「差別」もしくは人の意識は変わらないのだと思う。どちらか片側ではなく、中立の数というかね。どうでもいいじゃない中立、意識の拡大した上での中立ってことね。

好きなもの

「好きなものは何か」と聞かれたら、どのテンション時でも「自分」って言うよ(笑)他の誰がなんと言おうとも自分は自分の味方でいられるようにしなきゃなと思うからね。でも自分嫌いでもあるけど。でもまぁ嫌いだけどやはり自分だけは好きと言ってあげられるだけのものを自分に足そうと思うのですよ。


自分的に「夢」という言葉はかなり嫌いだったりする。この言葉使って言葉を書いたことが実際ないんですけども、本当に嫌い。これは夢見ることを否定しているわけではなくて、自分的な決まりごとに近いのかな。夢見ちゃうと、夢とすると叶わない気がするから「夢」としない。現実にするために「夢」と言わないと決めてる。でも「信じるものは救われる」というのはよく言う。まぁ微妙な些細なことですが。

対象喪失

「コミュニケーションの限界とその打破」もそうなんだけど、自分の中にずっと「対象喪失」におけることというのがあって、ご時勢的に結局人間にとっての難関はそこらで普遍なのかなと今更また思ってたりする。だから書けと最近言われてるの知ってるんだけど、まぁ悩む。何に悩むのかは秘密(笑)

ゼロ

近頃嫌なくらいに痛感してるけど、自分は0が好きであって、白紙から絵を描くほうが好き。すでにあるものを変える、壊すのは好きじゃない。するならすでにあるもの、例えば1が何十個もあるのを壊してコラージュするのは好きなんだけど、ただの1だけをバラバラにするのは得意じゃないな。というか、1にする為に何かをすることは好き。1に他の1を足すのは好きってこと。

想い

誰かが誰かを好きであること、誰かが何かを願うことだとか、漠然とその気持ちはわかるけど、おそらくその本人が想う気持ち、抱くものというのは本人にしかわからないと思っているんだよね。これを言うと物凄く発信側としてはおかしいと言われるけど、それはずっと変わらない。だから自分が書いたものを100%相手にそのまま通じるとはまったく思っていない。1%だけでいいんだよね。その1%だけ共通、共有出来ればそれでいい。すべてわかれとするから絶望が来る。わかりあえないと思うのは逃げ。たった1%だけでも通じれば、共有出来れば人は救われるのにと思う。

プロ意識

今更このプロ意識アマ意識だとか話すのかったるいのでかったるいんですけども、すごくシンプルな話だと思うのよね。100円貰ったら100円分のことしかしないのはプロではないと思う。100円貰って200円なり1000円のことしようとする、足掻くのがプロだと思う。ただ通常10分かかるのを1分で100円ならそれはプロだと思う。時間という部分で還元してるから。
専門職であればあるほどこれは関わってくる問題よね。

自尊心

確実に20年前は仮にエベレストだとしたら、今は深海くらい潜ってると思う(笑)たまに言うけど、プライドなんてドブに捨ててる、捨てた。捨てたと言っても残ってると言われるけど、それは良くも悪くも自分であることの最低ラインがもう決まってるからだろうよ。

嫌いなこと

気遣えない人の様を見るのが嫌いかな。周囲見えない人とも言うけど、その人自身がどうこうじゃなくて、その人が周囲見てない・気遣えない様子が嫌いなんだよね。電車でお年寄りや妊婦に席譲らないみたいなのと言えばそうなんだけどさ、公共・共通の場ではともかく、自分がこれから生きようとする関連のある場で動けない人、その様子っていうのは考えちゃう。まぁこういうの芝居業界にいたからと言えばそうなんだろうけど、「現場」という名のつくとこに行こうとした場合、言われなくても動くなり、気遣えないというのは致命傷すぎるでしょ。そこをどうにかしないとなというのを考えるのがね、ちょっとね。

ヅラ

だからなんでいつもラスト変な質問をするのでしょうか?(苦笑)
昔からたまにエクステはつけてるけど、紫外線防止なのもあるけど結局は髪の毛切りたいけど切れないからその発散な要素が強いかな。あとパッキンに出来ない時とか。髪の毛はね、ほんまうるさいよ、自分。以下続く(笑)

髪型

幼少は三つ編み美少女ちゃんだったらしいのですが、ある時期から基本的にはもう短いよね。高校の頃は自分で切ってた。以後はカットモデル的な、実験感覚というか、自分のセンスで戦ってくれる美容師さんにしか切ってもらってない。初見で「好きに切って」と言って、無難ラインでなく冒険してくれる人が好き。10年近く○○ちゃんに個人的に任せてたけど、近頃は捕まらないので●さん。●さんは良いよ。名前晒していいなら宣伝したいくらい(笑)なかなかいないですよ、初見で「好きにして」と言って、「片側刈り上げてもいい?」と言える美容師さんて(笑)
いい年こいた女がする髪型ではないなと思いつつ、さらに色も基本はパッキンですからね。ダメよね。パッキンにしてからじわじわと日を変えて濃くしていくのが好きさ。ただ何にしてもクリエイテブ(笑)なことする時、パッキンでないと引かれること多いのでちょっと面倒かもしれない。でも自分の白髪発見しなくて済むのでいいと言えばいい(笑)

人と違うこと、同じこと

人と同じが嫌なわけではなくて、人と同じに出来ないことというのが昔からたくさんあって、同じであることが出来ないということはさ、居場所がないでしょ。だから違うこと、という部分で自分の居場所を作ったというのが正確。つまり自分が落ち着くのが「違うこと」なだけ。かなり間違ってるような感覚ですけどね、同じでいられることというのは何よりも強いと思う。それが「普通」なり「特別」という言葉で分けたとしてもね。

小劇場と芝居

幼少は遊園地行くとかそういうのより、美術館や劇場に連れて行かれることが多かったし、自分でよくいたのはライブハウスやらだし、いわゆる「小劇場ブーム」というものには一切乗ってないんだよね。舞台の方の学校に行っても、行ってくるくせに根本的に芝居に対しての興味みたいなのはかなり薄かった。関わっていても薄かった。でも、自分で唯一うんざりするほど観たのはつか芝居。
今まで観た芝居の総数が100としたらそのうちの90はつか芝居と言われるもので、この差というか、ほかのものが勝つことはこのままずっとないと思う(笑)
同世代あたりで自分らで芝居をやろうとした、またはやっている人間のほとんどがつかこうへいの芝居に影響を受けていると未だに感じるし、真似ではないけどあの手法で作品作る人らも未だにいる。それは間違っていないし、憧れだろうと本人らが思う芝居がそれならそれでいいと思う。でもたまに思うんですよ。つかさんの作品を使ってやろうとも、独自で作ってやろうとも、「違う」ってことをどれだけわかってやってる人がいるのかなと。そこわかってないと近づくことは出来ないと思う。わかってる人らがつか作品やると逆に近いと感じるんだよね。言い回しや台詞だけじゃないんだよね、やはりさ。
自分的にはほんとにつか芝居ばっかり見てたけど、つかさん的芝居をやろうとは一切思ったことがない。500%出来ないし、書けないし、無理(笑)こういう考えも変なのかもしれないけど、結局なんかさ、「ああいう芝居をしたい」ではなくて、自分としては「ああいう意志のある、感じられる作品作りたい」と影響受けたわけで、そこから考えると自分がそうあるために出来る方向性というのはもれなく違ったと。あるもの・持ってるものが違うんだから当たり前。そういえば不思議なことにつか芝居を見ていると役者が好きになるけど、他の芝居見てると役者が嫌いになる確率が高いです(笑)

挫折と線

生きてりゃいろいろ大なり小なりの挫折はあるけど、人生最大の挫折は小2です。この年齢で挫折ってる方がおかしいらしいけど、なんかね。ってか、小学生の頃はほんとに多感すぎたと思う。ピークを20歳までにと思ってるあたりがまずね、老成。こういう話すると「変」レッテル貼られるから嫌ですが。
何にどう挫折したかというと、自分が絵の方を捨てたというか辞めたという挫折。小2のクラスメートにいたんですよ、絵のうまい子。自分も割と描かされていたりしたので「線」というものに対してすごく意識していたんだけど、その子の描く線がね、もうね、違うわけ。自分が行きたい、描きたい線に行ってたのよ。そしてもれなく自分はその線にたどり着けないなと。写実と抽象の線の違い、絵画とイラストの違いのような線ですよ、物凄く簡単に言うとね。今思えばそれでも写実頑張ればよかったのかもしれないけど、自分には持ってない線だなというのにさっさと気がつかされたので良かったんだかなんなんだかなと思う。一本の線で敗北、挫折するのってすげぇよ、ほんと。

性差と暴力と自分

性差ってタイトルと合ってない気がするけど(苦笑)
女であることや男であることだとかね、性別でどうこうというのは本当にくだらないと思う。自分がそれに縛られているからこそ思うし、今の世の中そういうわけ方はナッシングでしょう。ですがね、とりあえずこの決まってしまっている性別ゆえにキツイ事象というのは溢れてる。それがね、どうにかならんもんかなぁとやはり脳みそのどこかでいつも考えていたりする。
カテゴリーとして男と女という区切られ方された場合、女であることは時に苦痛を生むでしょ。本能的に男が怖いと感じてしまう、または性的な部分での恐怖だとかね、自分の要素を否定されることがある。これは男女逆でもあるだろうけど、自分は女であるのでその女としての自分の要素を男というもので踏みにじられる恐怖というか、経験的に辛い・しょぼーんとしちゃう感覚があるのでね、そういうニュースやら見るとゲンナリしちゃう。
だって女はさ、時間かけて女であることを認識して肯定していくのにさ、それが意識的無意識的だとしてもさ、時間かかるものを一瞬で男は停止させることが出来るんだもの。崩壊させることが出来る。ま、同性同士でもあるし、こういうのは男の中にも女に対してあるのかなとも思うけど。ということでたまに物凄く性教育の現場をどうにかしたい衝動に駆られるんですよ。

コンプレックス

「コンプレックス=願望」と思ってるのでどっちかというと否定的なニュアンスだとは思わないようにしてる。人として「~したい」「そうなりたい」という気持ちは大事でしょ。なのにそれを卑下する、マイナスととらえるのはどうなのかなと。
でも自分にはコンプレックスというものはない、としてる。探せば出てくるけど、出てきても肯定作業を先にするね。何ていうか、自分では自分と誰かを比べて羨ましいとかそういうのは思わないというか、思っちゃいけんだろうとしてる。そういう感覚がプラスに転じるタイプならどんどんそのコンプレックス持って、感じて足掻いて変化していけば、切磋琢磨すればと思うけど、失敗するとさ、達成できないと自己否定への道まっしぐらでしょ(笑)でも切磋琢磨しようとする気持ちは買いでしょうけど、自分はぐうたらなのでそういう切磋琢磨はしないんですよ。今ある、持ってるものを肯定しまくる方が向いてる。

真面目と不真面目

文章形態として、作品としてるのが「真面目」とすると、現在は停止されちゃってる(苦笑)ブログだとかその類のものは「不真面目」だよね。不真面目な部分から見ると真面目なものとの落差が半端ない(苦笑)人格違うでしょだとか、キャラがどうこうだとか言われるので困るんだけど、もう治らないし、どっちも自分だし。ブログだとかそういうのでぐうたら書いてるのも自分だしね、今更ね。一面ではいられないし、多面だとしてもその多面をすべて統一するのは向いてない。何故なら自分の作風がそもそも内面ストリップだし、人との付き合い方も原則晒す、だからね。ま、AB型ってことよ。

見えるものと見えないもの

見えないものの方が好きですね。でも「見る」「見ない」だったら「見る」を取る。視界から広がるものがとても好きだし、自分の視界から広がって得られる感覚がやはり好きというか、自分は視界を閉ざされたら結構やばいと思う。見るということに感覚のすべて持って行ってるの知ってるし。日常生活としてなら足掻きようがあるし、踏ん張れると思うけど、感覚的なとこで考えるとあまりにも依存してる。

愛欲葛藤

愛欲葛藤は「愛欲」「葛藤」でなく、「愛」「欲」「葛藤」ね。区切るだけで意味が違う(笑)結構この言葉好きなんですよね。だってもれなく「人」でしょ?人が持ってるもの、自分が人のそこを見たいと思っている場所だから。他人のそこを見る、感じられるとまぁおもしろいですよ。エゴは見苦しいから嫌いだけど、エゴが発生するのはそこらへん絡むしね。

真ん中

白黒だとか善と悪だとか物事はっきりは好きだけど、中立でなく真ん中に存在していたいと思ってる。中立だと事なかれ主義っぽいからイマイチ。真ん中にいて、まぁ右と左のそれぞれが流れて来て、どっちがどうなんだろうなぁと考えていたい。白には白のプラスとマイナスがあって、黒には黒のプラスとマイナスがあって、混ざってしまうとグレーなんだけど、グレーにもいろいろあるからね。どのランクの色番のグレーにするか、ね。

老体

変な質問にも限りがあると見た(笑)
老体はもうかなり前から「老体です」と喚いてるので今更ですよ。年の割には若い、若作りと言われるけど、どう考えたって同世代から比べたらいろんなとこ老体です。下手するとかなり上の人より老体。そんなに無茶して生きてるわけじゃないけど、まぁ長生きしないと思いますよ。したいと思わないわけじゃないけど、正直ある年齢を超えた自分というのはまったく想像出来ないので限界はあるんだろうというか。

○活

「○活」って言葉、ブームなのか知らないけどいろいろあるよね。大体こういうのが出る事象、事柄とは自分は無関係なんだよね。ブームに乗る、乗らないは別として、したことない。それは恵まれてるというのとも別。単純に究極のマイペースなだけなんじゃないのかな。

働くということ

こういう発言していいのか微妙なんだけど、自分は「働く」という感覚がちょっと欠落していると思う。働きたくないという意味ではなくって、働かないと生きていけないのは当然なんだけど、その当然の部分を義務教育中に教わることはなかったし、その後も実感してない。それがちょっとなんかオカシイなとたまに思う。教育って何だろうね。

会社

年齢的にベンチャー世代っつうやつなので、会社作ってたりすると「ベンチャー」「起業」っていうカテゴリーに入れられるんだけど、自分的にそこに入れられても困るなと思うことが多い。どっちかというと自営上がりと思われるほうが正しいし、納得する。儲けようどうこうより、会社、つまり法人化するのは一つの身を守る手段であったし、仕事の展開上、便宜上なとこ強い。ただその分背負うもの多いけど。
ただ最近同世代の同ポジションの人らと話したりするとさ、自分そもそも10代くらいから会社作る気でいたので発端なり、覚えてきたものが何か違うと痛感する。いずれにしても一つ会社を持ってしまうと、続けてしまうといろいろしがらみが出てきて面倒なんだよね。だからいろいろまた考えちゃう。

年齢と経験

仕事してるとさ、自分よりすげー下の人とか上の人と関わることの方が多くなってく。同世代と関わるのは好き勝手なことする場合くらい(笑)まぁ自分が年齢で判断されたくないから他人を年齢で判断することはないけれど、結局経験だよね。経験と年齢が比例することもあるし、しないこともある。しないこともあることを理解してるかしてないか、ってのは強みになるよね。

あっち側とこっち側

受け手と送り手というのはもともと考えてるけど、使う側と使われる側というのもたまに考える。使われるって言葉の響きはなんだかよくないけど、自分的には「使われる側」でいられる人の方が素直で頭いいよなと思う(笑)使われる側っていうのは難しいもの。使う側も大変だけど、使う脳みそ違うしね。
自分は「使う側」でいたいというより、そこにしかいられないなとずっと思ってて、使う側のことを考えているけれど、気がついたらもしかしていい加減「使われる側」にもいられるかなと感じられるようにはなった。そう、大人になった(笑)というか、今あるもの片手に就職活動したら今より稼げるんじゃないかと思うしね。そういう部分では今の自分に納得してるってことなんだろうけど。

見せたくないもの

裸(笑)…というのは冗談ですけど、原則「仕事してる様」とか「大変そうな様」は見せたくない。暇そうにしてるのが自分だと思う。でも実際の仕事量からすると忙しい様見せてないと時間が追いつかないんだけどね。格好よくねぇなぁと思うから嫌っていうのもあるんだけどさ、自分が暇そうというかドーンとしていた方がいいらしいのでね、見せない。誰かに振れよと言われるけど、最悪の時は振るけどそれ以外はね、あんまりね。

古風

同世代より親の年齢がかなり上なのもあって、かなり意識・深層レベルで自分は古風です(笑)刷り込まれてるよね、なーんかとっても。それが嫌だったり、重圧や自由になれないとこがあったのでキャラでいうなら男前になったんだけど、男前乙女とかほざいてるのでなんだろね。いつもないけど、これ完全にオチないよ、これ。

介護

介護される側ではなく、介護する側の話をするとさ、業務展開の問題で介護に関わるようになったけど、思うのは専門職であるのに専門職であることを守ってくれる部分が弱いよね。すごく。スタッフのケアの部分もそうだけど、下手するとこれからにしろすでにしろ、スタッフそのものの意識がまだまだ低い。仕事がないから介護、介護なら仕事ある、という考えは専門職であることからとても離れていることだと思うし、金になるだとかそういうのもおかしな話。大切なものはそこじゃない。
「現場」って言われる職場はさ、どこの業界でも同じだよ。そのことがちょっと心配になる。介護に問わず「現場」って響きの職場を知るなら、さらに専門職であるならばかなりキツイんだもの。筋とか道理とかね。しかも『人』商売で、サービスでしょ、どう考えてもきつい業界なんだもん。でもその分シンプル、そのシンプルさが大事な世界。相手の目見て挨拶出来なきゃ怒られる、いやそれは芝居の世界のことだけど、介護もやはりそうなんだよね。シンプルな当たり前のことが一番難しいけど、一番それが重要なんだよね、人としてさ。

趣味

「ない」って答えるようにずっとしてるような気がする。してるというより、ないし(笑)テレビなくても生きていける。でもパソコンないと生きていけない、インターネッツ(笑)はどうでもいい。強いて言うなら「ダメ大人の会」かな。ほんとダメな大人を数日し続けるとかそういう会です。

汚れなきもの

そういうのは自分の心じゃないのかしらね。嫌な思いしようと、辛い思いしようと、踏みにじられても泥投げつけられてもさ、真っ白ではなくても汚れなきものだと思う。

好きであること

ある意味自分のモットーというか、コンセプト的にね、わかりやすいことを言うと「好き」という言葉、その想いの丈の違いをずっと考えてるんだと思う。と言ってもわかりづらいと言われるのでそれはつまりそういうことです(笑)方向性はわかるけど、真意はわからないじゃない?そのわからなさがね、足掻き。
「Aさんは○さんを好き」としても、Aさんの○さんへの想いはベクトル的に「好意」で指し示されるけど、どんだけどうなのかはAさん知って、さらに○さんを知ったとしてもちゃんとわかることはない。Aさんの気持ちはAさんにしかわかんないやん。たとえ告白しても好意としてしか届かない。じゃあわかってくれないって諦めるのではなくて、少しでも届くようにするのがね、いいさ。

妄想

これ今回の変質問ですか?(苦笑)
妄想と言ったらほんといろいろ妄想してる、最近はそんな暇ないからしてないけど。昔はさ、よくしてた。口述の言葉はさ、国の言葉でしょ。英語とかフランス語とかドイツ語とか、いろいろ。だから言葉の壁があるけど、脳内の壁はないのかということをずっと考えていた。所謂テレパシーでもいいんだけど、脳みその中で考えてる事柄っていうのはさ、頭に管ぶっさしたりして繋げたらAとBは言葉の壁あっても通じるんじゃないのか、とか。ま、今でもそうならええなとたまに妄想する自分(笑)

自我とエゴ

紙一重のものでしょ、自我とエゴ。
自分的に他人のエゴを感じるのが一番面倒で嫌い。大体エゴを出す人ってそれがエゴである、エゴになるという意識や認識が希薄になるから、その様が美しくないから嫌いなんだよね。

常識と非常識

自分にとってこれは常識となっている代物だけど、他人にとってはそれは常識ではなくて非常識に該当することがある、っていうことを何故人は見失うんだろうなと思う。
「んなん常識でしょ」と怒ったって、それはその人の生きてきた環境でなり培ったものでさ、他の人からみたら30%くらいは同じことが常識かもしれないけど、残り70%は完全ベクトル真逆ってことはよくあるのにね。だから言葉、形容に惑わされちゃいけない。言葉を信じることは大事だけど、慢心はよくないよ。

何様

これ今回の変な質問になるの?(笑)
口癖っちゃあ口癖なんだろうなぁと思うよ、「何様のつもりじゃ!」みたいな何様っていうやつ。
耳にしてる人は通じてるけど別に高飛車な意味でとか、上から目線なわけじゃない。人に格や地位やそういったもので判別したり、差別したり、区別することはよくないことだし、その意識はないんだけどある状況で自分が置かれている立場、位置というのをさ、自覚出来ない様を見るとつい…(苦笑)ただね、そういうこと思う時って、言う時って、もれなく自負はあるんだよね。自分がやってきたこととかね、それが些細な苦労だろうとなんだろうと、自分は自分に対して恥じてない。恥じてないからさ、対する武器が違う次元でああだこうだというのを聞くと「何様じゃ!」と思う。自我とエゴんとこに繋がるけど、自我での戦いなり、意見ならいいけど、たかだかへぼいエゴなんぞ相手にする気は今も昔もないやね。

日光過敏症

まぁこれはそのままの話でしょ?
10代からじわじわと日光過敏症、もしくは紫外線アレルギー。これはもともとその因子あったのか、夜行性すぎて結果的にそうなったのかはわからない。10代後半くらいからだしね。もともと高校生の頃もほとんど半袖とか夏場でも着てなかったし、今でも着ることはありえない。割と昼間に生きるのは辛いですよ、まぁ外ほとんど出ませんけど。

ネオンと自然

自分が居やすい、呼吸しやすいのは夜の街なんだろうなぁと思う。日光過敏症のこともあるんだけど、森林浴だとかそういったものだと逆にすごく疲れてしまう、素直にネオンの人工の光の中にいる方が楽だなと思う。湿疹出るかも恐怖もないし。適度に自然が一番。そもそも昼間って似合わないって言われるしね(苦笑)

許容量

間違いなく誰よりも広いが、誰よりも狭いです(笑)
誰よりも狭いこと自覚してるから、極力広げ続けるようにしてる。何故なら自分が他人から先入観持たれたり、決め付けられるのが大嫌いだから、他人に対してもそれはしないようにというね、心意気。でもそれでもどうしてもダメっていうのはあるけど、ダメって思うのは自由ですけどそれを他の人その他に押し付けるなり、共感求めるのは違うと思う。そういう共通意識は何の価値もないと思う。その場だけのものでしょ。そんなもんに縛られるなら広げてしまったほうが勝ちだよ。

友人関係

友達いない同盟と独身男前女子チームってのがあって、メンツほぼ一緒です。歳食うと友達がいなくなるっていうのもあるんだけど、結局仕事絡んだりした上での関係だから純粋な友達というのはいないんじゃないかな。そもそもあんまり友人関係というかさ、そういうので発生するああだこうだ嫌いだし。

いじめ

誰も信じないが、自分は「いじめられていた」方だ。理由は知らん(笑)んでもってかなり他人に裏切られるだとかそういうのの被害にあってると思う。が、結果的に自分から見たらそれは「裏切り」なだけであって、本人はそうは思ってないんだろうなぁというのは思う。何故なら自分もそういうことしてるような気もするし。そんな風に思うようになってから「みんな嫌い」とかそういうのは思わなくなったし言わなくなった。昔はほんとに「みんな嫌い」だった。何にしてもさ、いじめられたこととかね、嫌な事とかね、全部プラスに肯定に変えたもん勝ちと思う。自分の価値ってのはさ、まず自分でつけてから決まるもの。他の人は関係ない。自分で自分の価値を決めた上で、それを相手に納得させればいい。納得させられるまで足掻けばいい。ま、それでもヘロヘロッて他人に負けちゃう、惑わされることはあるけどね。それはそれで負けちゃう自分が可愛いと思えばいいと思う。

束縛

いろんな意味で、いろんな事柄で束縛するのもされるのも嫌い。人は何かしら必ず自由でなきゃいけん部分ってのはあって、それは人によっていろいろだけどさ、まぁ気にしなきゃいけんことだよ。

寿命

物心ついた時にはさ、自分は60までに死ぬ確率高いんだなと思うようになってた。今も思ってるけど(笑)これは母方の女子がみんな60前に亡くなってるからなんだけど、同じ病気やらならともかく全員違うからね。自分の母含めて。見事なくらい母方の血の方が強いらしいので、怪しいですよ、自分。そしてよく考えたら父方も割とそうなので、60越えた叔母とかね、そういうのいないんですよ、だからどっちからもやばい(苦笑)
だから自分が60越える姿というのは想像出来ない、こういうのはでかいと思う。想像力って大事よ、ほんと。だから親の姿見て子供は大きくなるわけでしょ。どこか模倣される、すべてではないけれど一部が模倣されるのは確実だもの。反発しようが何しようがいいけど、自分の親が成人するまで存命である場合は感謝すべきだと思う。どーしようもない親はいるけどね、それは当然論外、反面教師で。
最近というか、もう当の昔に後半戦入ってるのでどうなんだかなとは思う。長生きしそうでしなさそう(笑)まぁいつ死んでも後悔ないっつうのはかなり嘘だけど、後悔しながら死ぬのも一興と思うのですよ。

漫画

あ、これが変な質問になるのね。
昔、漫画描いてたこともあるんですけど、何年経っても読むね、漫画は。小説にしろ何にしろ活字物も読むけど古典というか、昔の作家の方が好きだし、でも大半読んでるから読む作家がない。最近の人はいまいち。でも漫画は今も昔も全ジャンル読んでる。もれなく漫画喫茶に行っても時間が潰れないです(笑)だってほぼ読んでるもん。ただね、最近の漫画というか、低学年層に向けてるものの倫理観の欠如はちょっと腹立つ。これは作家側なのか、編集側、経営方針なのか、それとも世相なのか知らんけど。なんかねー…うん。