Introduction

■mtakedaに寄せて

各種冊子、WEB、フリーペーパーや公演その他で寄稿された原稿の一部抜粋。

「自分を見つめ続けるしか出来ない人」 文:三沢考也(M+M&En)

一言でいうなら「自分を見つめ続けるしか出来ない人」だろう。しかも自己愛ではなく、他者愛でだ。

「鮮やかな黒」 文:三原史央

芸術、アート、表現とは何だろう?金のならない木か?気がついたら自分も歳を取り、彼女も歳を取った。印象だけは何も変わらないのは青臭いままだからだろうか?羨ましくもあり、切ない。鏡であること、虚像であることに費やし、変わらずにいる。だから何一つ根底のイメージは変わらない、覆されることがない。そのままだ。虚像の彼女を見せられている。以前にもどこかで書いたが、彼女は“鮮やかな黒”であり、誰よりも“素直な馬鹿”なのだと思う。あまり自分の為に生きていない。生きていないからこその“世界”と“色”、偽善であって偽善ではない。
作品、彼女の作る“世界”はあまりにも内在で内包、シンプル。たとえそれがオブジェだろうと舞台であろうと言葉であろうとも、“空間”があり、対峙、ただ対峙することが彼女の“世界”であると言える。正しいも間違いもないが、それが感じ方、受け取り方なのだろう。難しいことは言わない。だが、ある意味難しいのだろう。いつだって差し出されるのは“自分”、見たくはない自分を“世界”に見る。
彼女の舞台空間で観客は舞台を見ずに耳を澄ます、ということが稀にあった。「それは敗北、限界」だそうだが、言い換えれば彼女の“世界”はそれだけでしかない。役者が役者個人の意味を持たせて言葉を台詞として話し、動く、その行為はいらない。彼女が“誰か”に言いたいこと、それは単純に「好き」と言ってどう受け取るかは“あなた”次第だということ、自分が言う「好き」の意味は“あなた”が決めればいい、ただそれだけだ。当たり前のことだけれど、その当たり前があまりにも今はない中、想像力、そして心の在り所をそのまま投げる、試される。それが快感。対峙と愉悦。とても優しく包み込み、突き放す“空間”を作り出す。
現在、紡ぐ“世界”を望む声は多いが耳を塞いでいる。それでも“世界”を“誰か”が欲している声が届く。本人はともかく、その声に応えるべく、その一片としてのMeism.である。彼女だけでなく、一人でも多く、たった一人でも望む限り「自分らしく」在って欲しいと願う。
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上記は彼女が活動を停止した直後にオープンさせたこの“Meism.”に寄せて書いた文章である。あれから彼女は「10本やったらやめる」と宣言していた当初の予定通り、2008年に今までで一番小さい形で公演を打ち、本人の作品を舞台で発表するのをやめた。それからまた数年、彼女は相も変わらず彼女のままである。偶像・虚像と現実の自分の境界線が以前より明確でなくなっている分、時折笑いながら話す「霞食って生きてる」がリアルで笑えない。出来ることならもう一度、彼女の“世界”を感じたいと願う。今の自分が、何を突きつけられるのか知りたいと思うのは自分だけではないだろう。


「明暗と陰影」 文:清水直人

えむさん(mtakedaのこと)をどんな人かと聞かれたら「明るくて暗い人、暗いけど明るい人」と自分は答えると思います。明るいところから見たら暗いけど、暗いところから見たら明るい…そんな感じの人です。どっちでもあるではなくて、どっちでもないです。10代の後半の頃、ある人がえむさんのことを「不遇の天才」と評したことがあります。それはタイミングが早いだの運だのという意味もあったのだと思いますが、「女じゃなきゃ」というニュアンスが強かったように思います。本人はそれを知ってか知らずかわかりませんが、それ以前からそれ以後もずっとmtakedaです。性別がわからないこと、何者だかわからないこと、先入観を持たれないようにすることを意識していました。だからきっとえむさんがmtakedaとしている時はえむさん自身が自由である証なんだとある時期から僕はそう感じています。女でも男でも人としてでもなく、自分、自分を構成してるものからも自由になっているのだと思います。だから明暗、陰影、どっちでもあるんじゃなくて、どっちでもないです。

■寄せ書き

作品展などに置かれていたスケッチブック、各公演のアンケートより抜粋

Stage

「こういうものを書くとは思わなかった。普段の感じとのギャップがすごい。」

「今の自分の気持ちそのまま。痛い。」

「若い頃の父は絵を描いていました。きっとその同時は同じようなことを感じて思っていたんだろうなと思いながらみてました」

「まさに言霊」

「こういうこと言っちゃいけないんだろうけど役者はいらないんじゃないかと思います」

「重いけど漠然と何かが残りました」

「シンプルすぎてわからなくなるけどわかったような?」

「ゴダールみたい」

「難しい」

「迷いが少し晴れた」

「何本か観たが芝居なのかリーディングなのか観るたびにわからなくなる。言葉に出演者が負けていると感じてしまう瞬間が何度かあった。舞台ではなく、ただの活字で台本を読んでみたい」

「淡々としてるけれど流行の日常会話的な舞台じゃなく何だろう?と思った」

Art

「自分がしたかったことを代わりに表現してくれた気がします」

「人形を取り巻く雰囲気が優しいけど悲しい感じがした」

「生まれるの早かったか遅かったんじゃない?」

「空気感がほんわりしてるけどほんわりじゃない部分が感じられる」

Maniaより (Kyo)

友人に連れられて見に行ったのが#00Sの「心臓と孤独。」でした。朗読劇のような、とにかく出演者が心情を相手には決して言わない言葉を吐いていて、びびりました。芝居というものをそれまで見たことがなかったので見に行くだけで新鮮だったんですが、あの後他の芝居を見たりするようにもなりましたがあの時の何とも言えない衝撃はなくって、どっちかというと芝居って苦手なんだと思ったり。だけど不定期ながらもmtakedaさんが作る舞台は毎回行ってました。見るたびにこれって芝居じゃないんだろうなぁと思ったりしながら、何だか自分と同じこと考えてたりする人がいるんだって感じられるのが救いでした。もしまた舞台あるなら見に行きます!出来れば「心臓と孤独。」をやって欲しいです。だって唯一出演なさってましたよね?待ってます!

Maniaより (にゃろめ)

Hzのシリーズどうなったの?ラストと打ってた小林くんとのあれでおしまい?小林くんのやってた「長谷部実」だけじゃなくって他のキャラクターのその後が知りたい、「斎木耀子」とか。元は小説の形だったと噂で聞いたから形にしてほしい。同じように年重ねて思うこととか感じることとか見るものがどう同じなのかずれていくのかわかるのは楽しかったから。